社会人になってからやめたことがある。
その主たるものが
・ゲーム
だと言える。
代わりに台頭してきたもの
読書
今、ゲームの代わりに時間を使っているのは読書だ。
1日約30分~1時間程時間を使っている。
筋トレ
平均2日に1回は確実に行い、1時間程度時間を使っている。
気分もよくなる気がするので、苦痛なく続けられてる。
YouTube
YouTubeに使う時間は1日あたり、1時間から日によっては4時間も使っている。
この記事を書く前にiPhoneのスクリーンタイムの機能で確認した。
驚愕する時間の量をYouTube動画の視聴に使っており、時間を消費している罪悪感に苛まれた。
熱中していたもの
私が主に熱中していたもの(社会人になる以前に大半の時間を使っていたもの)はゲームだった。
ゲームは面白い。熱中できる。時間を忘れる。
ハマれば1日ずっとゲームしていることもあった。
ただ、社会人になってから熱中できるほど時間をかけられていない。そもそも熱中できるコトがない。
なぜか。
時間という限られたリソースを自己投資に使わねばならない、という自己啓発の呪縛にとらわれているからかもしれない。
時間をかけるくらいだったら、もっと有効活用したい、という意識がはたらいているのかもしれない。(ただ、この意識が正しいのならばYouTube動画を視聴することは時間を有効活用していると言えるのか、というあらたな問いを生み出してしまう)
潜在意識
私はどうだろうか。
社会人的キャリアで見れば、有象無象の準強制労働者である。
特段目的もなく生きてきているので、なにか達成したいことがあるわけでもない。
海図のない航海に強制参加させられている気持ちだ。
そんな中でも、このままでいいのか、という焦燥感は湧いてくる。
その焦燥感は、自己啓発本(おなやみ解決ツール)を読むことで一時的には気持ちが落ち着く。
しかし、その根本(焦燥感)は無くならず、前よりもひどく焦燥感を覚えるケースもある。
価値という幻
いつの間にか自分が求めていることではなく、社会や他者が求めていることを追いかけている事がある。
学校を卒業したら、サラリーマンとなり、大手会社に就職すれば安泰、とかは社会の価値観が作り出した幻だと思う。
出世しなければならない、挑戦し続けなければならない、努力しなければならない、とか。
抽象的であるが、幻を追いかけるためによく言われる事だと思う。
それらは価値を高めることに直結する。
人材リソースの成長や労働者の挑戦は、最終的に会社組織に利益をもたらす。
会社は株主からの成長圧力を受け、必然的に成長を求められる。
私の捉えている世界観だと、この世は、価値あることに重きを置く魔境のように見える。
潜在意識への洗脳
焦燥感の正体は、「私は無価値でいいのか」という問いの可能性もある。
無価値ではいけない、という思い込みが根底にあるのかもしれない。
ここで一種の問いが生まれる。
私は、価値あることにしか興味を示せないのか。
つまり余暇時間で自己の成長とは無関係な事に果たして時間をさけるのだろうか。
ゲームができなくなったのは単に時間が取れないからなのだろうか。
焦燥感はあるが、YouTubeには時間をかけている私。
しかし、今までできていたゲームがなぜかできなくなってしまっているか。
熱中できることがYouTube動画を見ることに移ったのか。
自分がゲームに取り組む時間以上に、YouTube上にあるコンテンツを見る方がよいという価値判断になってしまったのだろうか。
純粋に動画を受動的に呆然と見ておく方が楽、という可能性も高いのか。
感性のおもむくままに
良くも悪くも私自身は変わってきている。
余暇の時間は「ゲームをする時間」から「別の取り組みをするための時間」として使われている。
それを改めて理解した。
熱中できる物事を探さねばならない、という一種の執着にとらわれていたのも今回のテーマで記事を書いた理由だとも考えられる。
少し考えすぎた。


